経王寺の歴史

開山 松井 寬義上人(圓満院 日顗 上人)

人物
内容
1290

れんげあじゃりにちじしょうにん

蓮華阿闍梨日持上人

開祖日蓮聖人の直弟子。
北海道に上陸
1875
松井寛義上人
豊平の地にお堂を建立
北海道10番目の日蓮宗寺院
お檀家数45件からはじまる
 1290 年、開祖日蓮聖人の直弟子である、蓮華阿闍梨日持上人(れんげあじゃりにちじしょうにん) が北海道に上陸されました。その約600 年後、松井寛義上人が開拓し始めたばかりの札幌豊平の地に立ち、ここで法華経の教えとお題目の声を響かせました。

 松井 寬義(まつい かんぎ)上人は、1830(天保元)年2月、紀州(和歌山県)徳川藩士松井嘉禄の三男として生まれました。幼少から学問に親しみ、大阪堺市の興覚寺で出家。京都鷹ヶ峰、西谷飯高の各壇林(壇林とはお坊さんの大学です)で学び、江戸(現在の東京)に出て深川浄心寺の塔頭である宣明院の住職になりました。

 明治維新の直後、日持上人の芳躅(※1)を慕い、北海道開教を志して北海道に渡りました。函館の実行寺に滞留し、江差を経て石狩の金龍寺に行きつきました。そのとき、当時開拓使の所在地であった札幌に注目、当時開拓の中心地であった妙見山本龍寺に留錫(※2)いたしました。当時、本龍寺で一時お世話になり、札幌近郊へ布教活動に出るという習慣があったそうです。折よく、開拓御用請負師であり、函館五稜郭の建設や、札幌の町割り豊平川の架橋に尽力していた大岡助右衛門、開拓御用料理屋(東京庵)の後藤彦右衛門、素封家(※3)中村甚五兵衛ら、熱心な法華経信奉者の支援を得て現在の豊平の地にお堂を建立することになりました。1875(明治8)年、寛義上人46歳のときのことです。日持上人が北海道を開教して以来、10番目の日蓮宗寺院にあたります。当初45件のお檀家数から始まりました。
 やがて北海道発展の中心地が札幌に移り、その開拓と比例して、お檀家数も増えていきました。当時、境内には行政機関や治安維持などの機関も設置され、教育・文化の中心として、また開教の中心地として発展しました。特に、明治14年に寛義上人が開いていた寺子屋は、現在の札幌市立豊平小学校がその歴史を引き継いでいます。

※1ほうたく…(「躅」は足跡の意)先人の業績・事跡をたたえていう語。よい行跡。
※2りゅうしゃく…行脚(あんぎゃ)中の僧が、ある寺にとまること。
※3そほうか…民間の大金持。財産家。

歴代の先師先哲

 1892(明治25)年5月7日、寛義上人は63歳で遷化(※4)されました。寛義上人の亡くなられた5月7日は毎年お寺の聖日として「開山会」として法要が営まれています。

第2世には新潟県佐渡島の一ノ谷本山、妙照寺の天野 順諦(あまの じゅんたい)上人が、室蘭付近の布教の後に経王寺2世として迎えられます。お堂の改修などに尽力されましたが明治30年2月18日にわずか在位2年余で遷化されました。残念なことに天野上人の事跡は資料が少なく目下調査中です。

第3世は、関東近郊特に東京で屈指の名説教者といわれ、『信玄身延攻め』というお話でたいへん高名だった沖邑 継静(おきむら けいじょう)上人が入寺されました。沖邑上人は現在の岡山県岡山市の出身で、久米郡の蓮久寺で出家得度、平井妙楽寺(岡山県中区)の住職を経て、広島市本覚寺の25世に進み、岩富 長福寺(千葉県 佐倉市)へ転住された後に経王寺の3世に迎えられましたが、明治31年8月5日わずか在位1年余りで惜しくも遷化されました。
余談ですが、大変雄弁家であった沖邑上人にあやかり、毎月5日の月命日に経王寺で沖邑上人をお参りすると、会話が得意になったり、話が上手くなったりと話術に関するご利益があるとされています。

次いで、第4世には柴山 啓要(しばやま けいよう)上人が、開山上人と縁のある深川浄心寺の命により、静岡県沼津市の妙海寺から入寺されました。龍神さまを特に大切にされ霊験あらたかな柴山上人には、そのお力を頂きたいと願う沢山のご信者さんがいらっしゃいました。中には龍神さまを御守護神として頂ける方もいて、現在豊平区水車町の難得龍神社は中西家の御守護神としてお祀りしていたものが現在でも受け継がれ、毎月8日に例祭が執り行われています。経王寺在職10年の間に境内の整備にあたられ、明治41年2月21日に遷化されました。
同年開山上人の正嫡法嗣である松井 義光(まつい ぎこう)上人が第5世として入寺されました。「どうして開山上人のお弟子さんが2代目じゃないの?」とよく聞かれます。
開山上人が経王寺を開創して布教活動をされている間、とても優秀で将来を嘱望されていた弟子の義光上人は、深川浄心寺・堀之内妙法寺(共に東京)・茂原 藻原寺(千葉県)などの檀林で勉学と修行に励んでおられました。今のように4年間で卒業ではなく、何年もかけての修行だったそうです。そして卒業後は有縁のお寺へ住職となるのですが、大きいお寺からの指示で住職になるパターンが多かったようです。義光上人も深川浄心寺の法務と深川圓隆院の住職をされてから、寒一百日の大荒行堂での修行を経て、明治37年に岩見沢東漸寺の住職となり、明治41年7月に経王寺の住職になられました。
本道布教監、録司として活躍し、庫裡・書院の新築のみならず、鐘楼堂を新築して梵鐘を新たに鋳し、北海道内各地に末寺、説教所21箇寺を創立しますがそんな義光上人に新たな転機が訪れます。大正12年9月1日に発生した「関東大震災」です。
地震や火災で甚大な被害を受け焼失、当時の住職も行方不明になってしまった浄心寺の復興のため義光上人が転住されました。沢山の方のご尽力もあり、諸堂の再建を果たし戦争末期の昭和19年3月25日に浄心寺で遷化されました。

 義光上人の転住後、第6世には4世柴山上人の直弟子である沼上 光学(ぬまがみ こうがく上人が岩見沢 東漸寺より入山されます。沼上上人は柴山上人が北海道へ来る際に静岡から一緒に渡道され師匠を支えておられました。沢山のお弟子さんを訓育され、在位20年の間に当時としては珍しい鉄筋コンクリートの納骨堂を建立しました。これが現在の開山堂がある第一納骨堂です。沼上上人はその後昭和19年9月6日病により遷化されます。

第7世には5世義光上人の弟子である安田 寛恭(やすだ かんきょう)上人が歌志内市妙法寺より入寺されます。時は第二次世界大戦末期から終戦後の日本全体が混乱し、誰しも生活が最も苦しい時代です。不安定な世情の中、在位の4年間は想像に絶する苦労があったと伝わっています。その安田上人は昭和23年4月27日に遷化されました。

※4せんげ…お上人さんが亡くなること

「北海身延」の称号を允許

 昭和23年、開山寛義上人の法孫で、第5世義光上人の正嫡法嗣(※7)である松井 義海(まつい ぎかい)上人が第8世として入寺されます。
義海上人は師匠である義光上人と共に関東大震災の後に深川浄心寺へ移られその法務を補佐し、戦中兵役から復員後は上総 常徳寺・一宮 實本寺(ともに千葉県)の住職を歴任後、藻原 実相寺(千葉県)に入寺します。7世安田上人が遷化された報を受けて、実相寺を義弟である畠山義暢上人へ託し、札幌へ戻り経王寺へ入寺します。
戦後の混乱期を乗り越え、戦時中軍に供出してしまった鐘楼堂の鐘を新たに鋳造し、庫裡や第2・第3納骨堂、墓域の整備、本堂の改修、昭和52年には弘経行脚の日蓮大聖人銅像を建立するなど、境内寺域の整備に尽力されるのみならず、札幌市西区平和に「奥の院 大平和寺」を建立、緇素(※8)の参詣の浄地と定めました。
昭和30年には総本山身延山久遠寺法主、深見日円猊下の経王寺御来山を期して「北海身延」の称号を允許(※9)せられました。義海上人は、日蓮宗の宗門行政に携わる傍ら、布教・教戒活動・保護司などの社会福祉に精力的に活躍。昭和63年5月21日に遷化されました。

9世には5世義光上人の高弟で、深川圓珠院、浄心寺の住職を歴任した荒木 義栄(あらき ぎえい)上人を、第10世には同じく義光上人の高弟で樺太野田 法華寺の住職で引き上げ後、長らく経王寺の執事として尽力くださった木村 義詮(きむら ぎせん)上人を加歴(実際には住職をしていないが、歴代の中に加え功績を称えること)し、第11世には8世義海上人の正嫡法嗣である松井 義昭(まつい ぎしょう)上人が法灯を継承します。
義昭上人は寺門興隆・維持発展に努め、開山上人百遠忌報恩事業として、昭和63年より平成3年の正当年の間に諸堂改修に意をそそぎ、書院・庫裡・鐘樓堂・歴代廟を新築。また、将来の宗門を担う人材の育成や法要儀式に対する深い見識を発揮し、宗門内で訓育指導者として役割を担われました。特に日蓮宗門内においては宗会議員として宗祖立教開宗750年慶讃事務局長して日蓮宗の行政・布教伝道に腐心しましたが、平成17年5月24日に遷化されました。

義昭上人の正嫡法嗣 松井 義宣(まつい ぎせん)上人が第12世として入寺し法灯を継承します。日蓮宗布教研修所を修了後は副住職に就任。すでに病床にあった師匠の代理として支えます。開山上人から連綿と伝わる伝統を堅持すると同時に、3世沖邑上人以来の言説布教家を目指し、平成21年日蓮宗布教院を卒業。4世柴山上人・5世義光上人の如く修法布教を志し、平成29年に日蓮宗荒行堂四行を成満。歴代先師の威容を保ちつつ、境内地整備や檀信徒教化などに全力を投じ、同年には11世義昭上人の13回忌と日蓮聖人御降誕800年記念事業に併せて、本堂内外の大改修事業を完遂。北海身延経王寺の面目を発揮しつつあります。

※5ほうし、はっす…師匠の教えを受け継いだ人のこと。
※6しそ…出家と在家の両方を合わせ称する語
※7いんきょ…認め許すこと。許可。

先師先哲まとめ

人物
内容
1875
松井寛義上人
開山
63歳で遷化
天野日順上人
第2世
新潟県佐渡島の一ノ谷本山、妙照寺から
沖邑日要上人
第3世
柴山日光上人
第4世
静岡県の沼津妙海寺から入寺
1908
明治41年
松井義光上人
第5世
在住16年。本堂布教監、録司として活躍、鐘樓堂を新築、墓域を定め、梵鐘を鋳し、説教所を創設、庫裡・書院を新築、末寺、説教所22を算す
沼上日恵上人
第6世
岩見沢東漸寺より入山、現在の第一納骨堂を建立
1944
昭和19年
安田日昶上人
第7世
1948
昭和23年
松井義海上人
第8世
第5世義光上人の法嗣 昭和52年に弘経行脚の宗祖御銅像を建立
手稲山麓の平和に「奥の院大平和寺」を築く
昭和30年に総本山身延山久遠寺法主、深見日円猊下の経王寺御来山を期して「北海身延」の称号を允許
1988
昭和63年
荒木義栄上人
第9世
木村義詮上人
第10世
松井義昭上人
第11世
8世義海上人の法嗣
昭和63年~平成3年、書院・庫裡・鐘樓堂・歴代廟を新築
2005
平成17年
松井義宣上人
第12世
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